2010年05月28日(金)

現状認識不足による制度ミス「老人カード」1

上海誠鋭実業有限公司 総経理 叶 家胤


 医療水準を含める生活水準の向上によって、上海はすでに老人社会になっています。政府もお年寄りにとって生活しやすい都市建設に努め、その一環として上海戸籍を持っている70歳以上のお年寄りに対するバスと地下鉄の無料乗車政策を実施しています。

 その政策は当初、社会進歩の証として宣伝され、歓迎されましたが、実施されるといろいろな不具合が生じました。


 バスや地下鉄の掛員が、その人が70歳以上だという判断をするために、まず70歳以上という証明書の「老人カード」を発行しなければなりません。

制度の発表と実施はあまりにも性急であったせいか、「老人カード」の発行が遅れました。そして、自分の戸籍証明によって申請し、やっと「老人カード」を受け取ったお年寄りたちの乗車経緯は決して愉快なものではありませんでした。

 初代の「老人カード」は紙製でした。お年寄りはバスでは運転手或いは車掌に見せるだけで良いのですが、地下鉄の自動改札口は通れないため、駅員に「老人カード」を見せて特別通路で出入りしなければなりません。

その実務上のわずらわしさは、まだ序の口、もっと深刻な問題が表面化されました。

老人嫌がらせ事件

 老人無料乗車政策が実施されて間もなく、無料乗車のお年寄りたちに対する嫌がらせ事件が続々と報道されました。その実行者は主にバスの運転手か車掌です。度々バスを利用している私も何回か、駆け足で乗車しようとバスに向かうお年寄りを待たずに発車したなどの嫌がらせを見たことがありました。

お年寄りたちとって、「老人カード」は親切にされる保障ではなく、嫌がらせされる引き金となってしまいました。では、なぜ社会的進歩を表す政策がそのような結果になってしまったのか。嫌がらせをした運転手や車掌のレベルが低いと批判する人もいますが、本当の理由はそう簡単ではありませんでした。

 大人の乗車が全員有料の時には、何も問題がなかったのに、無料老人乗車制度を実施した突端に嫌がらせを始めた運転手と車掌が不満をもっていることは明らかです。しかし、その不満は決して無料乗車するお年寄りたちに対するものではなく、老人無料乗車政策の制定者である政府に対する不満を乗車する老人たちに向かっただけです。

バス会社の政策に対する不満

その不満は以下の内容だと考えられます。

 社会全体が、お年寄りに対する尊敬の表わしとして制定された老人無料乗車政策ですので、その無料乗車によって発生されるコストも社会全体が負担するのは当然です。現実的には、社会全体の代表である政府がその政策を制定した以上、そのコストは財政が負担しなければなりません。しかし、その政策が実施されたとき、コスト負担者を明確にしていなかったようでしたので、コスト負担を事実上バス会社にさせました。

 バス会社が公営であれば、政府の政策実施に協力するのに何も問題ないでしょうが、上海のバス会社の大部分が民営企業です。それらの企業に、政府の政策に無条件で協力させることはナンセンスとしか言えません。バス会社が、その政策に反対する立場をとることは理解できますし、バス会社に所属している運転手と車掌には、更にその老人無料乗車制度を反対する理由があります。

 多くのバス会社の運転手や車掌の給与は、彼ら(彼女ら)の売上による歩合給です。限界のある車両空間にいかに多くの「有料」乗客を乗せるかは、運転手と車掌の収入向上に直接繋がっています。

老人乗客は運転手や車掌にとって無料だけではなく、満員の場合「有料」乗客の場所を取ることによって「有料」乗客が乗車できず、売上のマイナスまでしてくれる要素になります。別の角度で考えても、老人乗客の乗り降りは遅いし、乗車中特別注意が必要とされるなど、高いサービスコストがかかるのに、収入がゼロというのも不合理でしょう。

 老人に対する差別をしてはいけないと、綺麗ごとを言うのは簡単ですが、もし皆さんが安月給の運転手か車掌であったならどう思いますか。

実効性を考えない政策の失敗

 実行性を考えないで、よい目的であれば関係者は全部協力してくれるはずだという、希望的観測に基づいて制度を制定してしまう官僚、経営者、管理者が多くいます。無料老人乗車政策の制定者は、まさに政策をスムーズに施行させるためのキーであるバス会社のことを考えませんでした。また、施行される政策とバス会社の人事制度の関連性も研究しないままで推進した結果、お年寄りを尊敬しようとした素晴らしい政策を、お年寄りたちが嫌がらせを受ける政策に逆行させてしまいました。

このように施行できない、または当初の目的と違う結果になった制度が貴方の会社に存在していませんか。


 嫌がらせ事件の多発によって、政府も老人無料乗車政策の実行方法を考え直しました。 

本来行政が負担しなければならない老人たちの無料乗車コストを、民営バス会社に押し付けたことが、嫌がらせ事件の大きな理由であると政府も分かっていましたので、その改革を実施しました。

 上海ではICチップが埋め込まれている「交通カード」が発行されており、地下鉄、バス、タクシーで使用できるので、ほとんどのバスにその「交通カード」を読み取る機械が設置されています。初期の「老人カード」は紙製でしたので、その機械で読み取られず、乗車人数等を把握されなく政府はバス会社に補助金を出すことができませんでした。

 バス会社に乗車した老人の人数による補助金を出すために、政府は「交通カード」と同様にICチップを埋め込んだ「新老人カード」を発行しました。お年寄りが乗車するとき、「新老人カード」を読み取り機械に当てれば、その記録が残され、後日、その記録に基づいて、バス会社が政府から補助金を受け取れることとなりました。これにより、バスの運転手と車掌は老人の乗車により収入減にならないので、嫌がらせ事件は無くなると期待されました。

 改革の目的はほぼ達成でき、お年寄りに対する嫌がらせ事件は無くなったと思った矢先に、別の問題が発生されました。

現状認識不足による新たな問題

 上海の路線バスの大半は、2元という単一価格制を実施しているので、乗車の老人人数を統計すれば、補助金額が決まります。しかし、郊外を走っている多くの長距離バス路線は乗車距離によって乗車賃が段階的に設定されています。最高十数元まで設定されている路線もありますが、それらのバスに乗車する時、車掌に目的地を告いで、車掌は機械で料金設定をしてから、「交通カード」あるいは「新老人カード」を読み取ります。

 車掌は料金を決める権利を持っていますが、自腹の乗客に対しては料金表より多くの料金を取ろうとすれば必ず反発されるので職権乱用は起こりませんが、無料乗車する老人に対しては違います。

新聞報道では、2元の区間にその路線最高8元の料金を設定し、「老人カード」から読み取った車掌がいると報道されました。抗議をしたお年寄りに対して、「あなたはどうせ無料だから」と車掌が逆切れしたそうです。

 改正後の老人無料乗車制度によれば、そのバス会社は8元の補助金をもらい、その車掌も8元の業績評価をされるでしょう。2元のサービスを提供して8元の収入を得るバス会社と車掌は得であり、無料乗車した老人も損は受けていませんが、補助金を出す政府は大損になります。その補助金の出処は税金であることを考えれば、事実的な損をしたのは納税人です。私は納税人の一人として、老人無料乗車制度に反対しているわけではありませんが、制度の設計ミスにより、我々に損を与えてしまうことには不満を感じています。

 初期紙製「老人カード」によって、補助金を受けられないバス会社と乗務員は不満を持つと同時に、利益の最大化を追求するバス会社と乗務員が不正をしてまで利益を求めることも予測できたはずです。

そのような明らかな設計ミスが引き起こされる原因はたくさん考えられますが、現状を理解しないまま制度を設計し、実行させることがその一つであることは確実です。

企業制度の設計と実施も同様

自社の実状を調査・分析せずに、どこからもらってきた制度のフォーマットをそのままで使っている会社は少なくありません。それは老人無料乗車制度と同様に、いつ、どこで、問題が起きるか分かりません。問題になってから慌てて修正措置をとるのではなく、当初から現状に合致した制度作りと運営をすべきではないでしょうか。

続く

叶 家胤

上海誠鋭実業有限公司 総経理 (上海在住)

専門分野
企業管理・会計、税務管理

日本の、流通経済大学および産能大学大学院経営情報研究科卒業(MBA取得)後は上海へ戻り、コンサルタント会社を設立し、日系企業の各種経営相談・指導を行っている。2003年より異業種交流会『上海ビジネスフォーラム』を主宰しながら、各種雑誌にコラム掲載および各社顧問と各種セミナー講師多数。

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